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2010年8月12日木曜日

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 20世紀型の社会から、21世紀型の社会へ時代はうねりの中にあり、戦後の状況からから奇跡的な復興を遂げた日本には、多くの必然があった。ひとつは、先進国へ追いつけ追い越せという国全体での意識の共有である。戦後は、特に国としてというだけでなく、それぞれの日本人が、希望と共にこれまでの状況から新しい状況を本気で作り出そうとしていたからである。また、国の復興という大きな目標は、子供から大人まで理解しやすい状況があり、ヒーローがそのアイコンとなり、うねりのような状況下では、意識の共有が自然と出来ていた。

 もちろん市場の著しい進展も大きな追い風となった。願い、努力したモノは、ほとんどの確率で実現可能でもあった。まるでエスカレーターの上を走るように、経済成長を遂げてきたのである。ここでは、大きく間違った方向性にはいかない時代の箍が機能していた。社会は不安定ながらも、大きくドライブがかかったように疾駆していた。目標設定にしても、今後の在り方にしても、意識的な共有が自然と出来る状況にあった。

 しかし、市場の閉塞感と共に、方向性を失った船のゆれは大きくなるばかりである。嵐の中の難破船のごとく、操縦不能で何をしても無意味のようにも思えてくる。世は末法思想の状況と同じような状態に突入している。迫りくる社会の激流は、従来の企業理念にしがみついていても、乗り切れる代物ではない。企業を、人間を合理的な存在とすることに無理が生じてきているのではないだろうか。ロジカルな解答だけでは、客観的な答えは得られても、実社会に対する「在るべき解答」にはほど遠い。更に悲劇なのは、この状況を理解しないまま、次から次へと同じ失敗を繰り返すことだ。
柳の下の蛙のように、偶然、柳の木に飛びつくことが出来たしても、風の存在を知らなければ、次にはいつ飛びつけるかわからない。

 これまでの社会では、成長や進歩が前提とされて来た。そのために比較する数値化を、その指標としてきた。しかし、根本的に、成長や進歩に対する疑問が出てきている昨今、これまでのような問題発見と解決という仕組みについて、もう少し慎重になる必要があるのではないだろうか。人間本来の状態に立ち戻らないと、新たな進展は望めない。これまでのような外部に向けて、「見える化」のようなことでなく、勝てば良いということでもなく、成果や結果が出ればよいということでなく、その「プロセスを共有しようと知る意識」が大切である。ここでは、過去や未来に対して、何らかの影響を持つということでなく、現在、今ある状況を、全体でシェアする気持ちが必要であると考える。各個人が無意識の中にありながら、全体と繋がるモノ。これを組織で共有すると、手法やツールに頼らなくても良い状況が醸し出される。これこそが、これからの共有する意識であると思われる。

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